絶対な亭主関白、引きこもりの子供、家族の会話は敬語

ひきこもりになる前兆は高校の頃。
子供が不登校に端を発し診療内科を受診する事態になってしまった。その時、両親は子供におこった事態を受け止めきれずおろおろしていた。

入院となりその後、子供の心に良いと言うことは藁をもつかむ思いで偏見を持たずなんでも試してきた。自分たちに非があるのかもしれないといろんな専門病院やカウンセリングにも相談してきた。

ある病院のカウンセラーからは、結婚して本当に子どもが欲しいと思わないのに生まれたので、愛情をもって育てなかったのではないかと言われたこともあった。

決してそんなことはなく常に子供に愛情を注いできただけに病院の言葉にお母さんはショックを受けもした。
たしかにハネムーンベビーだったので、結婚すぐ出産そして試行錯誤の連続で育児の毎日の生活をしてきた。時には悪戦苦闘もした。

あるときぼんやりと思い返してみると二人の子供の親になっていた。

育児が終わったら次は幼稚園・小学校と休みなく初めての体験の子育てが待っていた。夫は、仕事以外に興味がなく子育てには無関心で基本的な事は全て母親任せでいた。

ただ子供の教育には異常に関心があり小学校から塾に通わせていた。家庭ではお父さんのが絶対的な権限を持っていて母親と子供二人はその庇護下で暮らしていた。

子供が自由にお父さんにおしゃべりする雰囲気はなくお父さんがいる時といない時の雰囲気が全く違っていた。

お母さんと子供二人はお父さんに日常会話も敬語を使っていた。

子供も生まれたときからそのように育ってきており他の家の状況など知る由もないので、どこの家庭でも同じなのだと不思議にも思わなかったようだった。

しかし、お母さんは夫の細かい指示の中で家庭のやりくりから子供の教育とあわただしく対応していたが心の中にはいつも不満がたまっていた。

時に、やり場がないので子供に当たったこともあったと反省していた。

父親のコンプレックスが子供の成長に影響し登校拒否、家庭内暴力に発展

子供が小学校に挙がると登校拒否を繰り返すようになり体調不良も合わさってチョクチョク学校を休むようになった。

教育に厳しい父親がその状況を許すはずはなく、お母さんは子供を気遣いながらお父さんに怒られないようにしていた。

今思えば、お母さんは子供の事よりお父さんの気を損ねないようにすることに一生懸命だった、と語っている。

お父さんが怒ると家庭の雰囲気が一変し 誰も声が出せない状態になってしまいヒリついた空気になってしまうことがとても嫌だった。
お父さんが怒るたびに子供がかわいそうと思っていた。
お父さんは仕事が上手くいかないときも機嫌が悪いまま帰ってくることがありお母さんはお父さんの機嫌良く帰ってくることを祈っていた。 

絶対的な権限を持っているお父さんのもと、お母さんがカバー出来ることは本当に少ない。そのような環境でびくびくしながらも平静を保とうとしていた。

そんな雰囲気だからお父さんに直接お願いもできないし話をすこともできなかった。

子供はお願いやお金が必要な時。常にお母さんを通していた。

家庭の中で子供の笑い声はなく静かに自分の勉強をしていた。 

そんな毎日で子供たちの精神状態に良いわけない。しかし誰もそのことに気づかないし触れられないままでいた。 

上の子が高校になり思春期になると不眠から精神状態に変調をきたし。家庭内暴力をふるうようになった。

父親は、子供にお金の不自由をかけないで勉強一途にやらせることが良い父親と思っていた。

父親は大学に行きたくても父親がいなかった。それが辛い思い出となっていてある種のトラウマのようになっているようだった。だから自分の子供には自分が行きたかった大学を目指すように頑張らせていた。

過剰な期待や徹底しすぎている家庭環境がじわじわと心をむしばんでいたがそれが子育てだと思っていた。

しかしある日、その子供が暴力という手段に出たことでパニックになっていた。
子供は親の監視下で静かにしているものと思っていたので、どうすればよいかわからない状態だった。 

知人のアドバイスもあり、かかりつけの医師の紹介で診療内科を受診することになったがその場で診断後、入院となる。

精神科の病棟は普通の病院とは異なるので、お母さんは子供の病気そのものより病院の状況にショックを受けてしまった。 

退院後 作業所に行ったりしてそこでいい人と知り合い交際始めるがコミュニケーション不足なので支え合う関係は困難なことが多かった。

家で親子4人で過ごしていたが 和やかな雰囲気はなかった。常にだれかが怒っており家族に笑いは無くお母さんは毎日が戦々恐々であった。

下の子も大学は出たけれど就職したが会社の雰囲気に馴染めず退職に追い込まれた。 

そんな時、お母さんはカウンセリングルームに訪問してきた。

家政婦あつかいの子供についにお母さんが強い意志で大きな決断をする

お母さんが10年も子供二人の事で奔走していてほとほと疲れていたので救いを求めてきた。

カウンセリングに来る前は紹介で宗教にも入ったが子供が良くならないと寄付が足りないとお金をたくさん請求されたりした.と話す。 

何をやっても八方ふさがりでふと死ぬしかないかと頭をよぎる事が多かったと話していた。

まずお母さんの気持ちを落ち着かせて人間は変わるのだから生きる希望を持って行こうと話した。

最初来談に来た時、お母さんは涙の毎日で顔が悲しい表情になっていた。明らかに心が弱っている状態だった。

カウンセリングを重ねるごとに少しづつだがポジティブな話ができるようになったのは通い始めてから相当の時間が経過していからだった。
それからはカウンセリングでも少しずつ笑うようになる。

父親にも心から相談できない状態だったが子供の精神が安定しない。
さすがに子育てに無関心だった父親も子供の事に少しずつ考えるようになってきた。

今までの子育ての様子を聞いてみると子供の意見は聞かずすべて父親が決めていた。

子供が失敗すると親が交通整理をする。

子供の自立をそぐようなやり方なので、心が育たない。

カウンセリングではお母さんに子供が自立できるようになるためにどうすればよいかを考えましょうと伝え、時には細かく話して少しずつ実践してもらった。

お母さんには、子供が自立できるようにお父さんと子供の間に入らないようにし、親子喧嘩で激怒してもお互いで納得できるまで話し合うようほおっておきなさい、それが子供の成長を見守ることですよ、と伝えた。 

何年も親子でことあるごとに戦いながらお父さんも心が変わりだしてきた。

ぎこちないながらも子供と話せるようになってきた。食事も家族そろってたべられるようになってきた。

すべてお母さんを中心に実践してきた。お母さんは頑張ってきた。

ここまで来るのに長い年月がかかっている。

子供たちも以前から思うとよくなってきたが仕事につけない子もいてお母さんに依存している。

そのことがお母さんの心を疲弊させカタチとなって表れてしまった。

家族からの離脱

お母さんは大きな病気もしないで何とかやってきたが、これ以上この家庭を継続することに耐えられなくなっていた。

辛抱の限界がおとづれた。いつまでたっても巣立ちしない子供の親依存に嫌気がさしていた。
それはカタチとなり家から離れると言い出した。

と言っても一度にできないので、出来るところからお母さんの意識改革を始めた。

お母さんの覚悟は、今までに見たことがないくらい強いものを感じた。

お母さんは、子供がいつまでも親は丈夫で歳をとらないと思っている。

時には、家政婦のように扱う。こんな関係はもう嫌だと言う。

親子の関係、夫婦の関係はなかなか立ち入れないので、お母さんがSOSをだした時にサポートするようにした。

お母さんは、わかる人がいてくれるだけで強くなれると話していた。

カウンセリングは定期的に行っている。お母さんの様子もわかるので安心している。

きっといつの日か自分を責めるのではなく。

よく頑張ったと自分をほめる日が来るといいなーと思っている。

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